【寄稿】人的資本経営における「育成」 ~人的資本開示で最も重要な「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」の実現~(前編)
人的資本経営促進に向けた流れが本格化しています。民間からも、行政の多くの部局からも様々な情報が発信されています。上場企業にとっては2023年度以降には有価証券報告書等で人的資本の記載が義務化される年になります。さらに、様々な労働系の人的資本に関する制度も施行されつつあります。
企業の中で具体的な施策を検討する時期に入ったと言えます。本記事では、人的資本経営を進める上で最も論点として重要になる「育成」について前編と後編に分けて解説します。
1.人的資本経営において、最も重要な人材育成上の課題
人的資本経営については、短期的な採用や配置ではなく、長期的な育成や風土、中長期を見据えた人事制度などが話題の中心になります。リスキルや学び直し、越境学習など様々な言葉と人的資本との繋がりが意識されています。その中でも特に、人材育成や個人のキャリアが注目されている、と言えるでしょう。こうしたなかで、人的資本における「育成」をどのように理解し、何を要点だと捉えればよいのでしょうか。
結論から言いますと、日本企業の人的資本経営において、「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」の実現が、重要な人材育成上の課題としてあがってくる、と言えるでしょう。こうした課題認識を持ったうえで、自社で働く一人ひとりが、どのように活躍し得るのか、ダイバーシティ、エンゲージメント、スキル習得を含む人材育成、労働慣行など様々な側面において、KPIを設定し、取り組みを実施し、人的資本最大化に向けた取り組みの開示を考えていく必要があると言えます。
もちろん、人的資本経営推進にあたっては、各企業において様々な取り組みの切り口があると思います。各企業が全く違う課題を持つからこそ、一律の項目や制度では人的資本経営の目的を実現し得ない面が大きく、だからこそ各社において独自の課題設定を行い、人的資本経営を行うための制度になっています。一方で、特に現代日本においては企業を横断して共通した課題だと言えるテーマがあります。その代表的で中心にある課題が「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」だと考えられます。
改めて人的資本経営とは何かを振り返り、その上で上記のテーマの重要性について述べていくことにしましょう。
2.人的資本経営の要点と、ライフステージや特性を捉えた施策の重要性
人的資本経営とは何でしょうか。人的資本経営における記事が増えるなかで、経営学的な論述や、上場企業の投資家への開示などの論調が目立ちます。しかしそれは、人的資本経営側面のひとつであると考えられます。人的資本経営の本質は極めてシンプルです。「企業における人材戦略上の重要事項を人的資本と捉え、課題解決に向けた取り組みを経営の基軸とすることで、個人にとって働きがいがあり、組織も成長する企業をつくること。更に、それを制度的義務や経営目的に応じて開示する」というものです。
国際的な枠組みや、国内の人的資本に関わる制度にても概ね上記と共通の理解があります。
テーマとしては多岐に渡り、育成、スキル、エンゲージメント、ダイバーシティ、コンプライアンス、健康安全、労働慣行、報酬、生産性向上などが挙げられます。
各企業での各テーマにおける課題はそれぞれ違うため、「人的資本可視化指針」などといった資料でも、まずは各企業で自社の経営戦略との繋がりのもとに人材戦略を定め、どういった項目を重視するかは原則的には任意であるとされています。以上について簡単に図示します。
しかしながら、任意での人材戦略や開示には例外があります。日本においては、先に見たような「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」についての課題が非常に大きいため、こうした課題と繋がるような人的資本の要素については、任意ではなく検討や分析、さらに開示までが義務になっているのです。
こうした、法制度上の義務になっていたり制度上、他の制度でも採り上げられていたりするような重要な内容は人的資本経営においては「制度開示」と呼ばれ、任意である他の事項とは別の扱いになっています。制度開示には下記のようなものがあります。繰り返しになりますが、これらの制度開示の主題はほとんど共通しており、「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を目指すものであるということです。次章に一覧を提示します。
3.「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」の観点での制度上の開示項目
制度上の開示項目(制度開示)は、以下のような内容です。
日本での人的資本の「制度開示」の一覧
1.有価証券報告書での人的資本関係の情報開示を義務化(上場企業対象)
・2022年9月時点の検討状況では、人的資本に関する情報として社内環境整備指針・人材育成指針、ほか多様性として、等を記載することになっている。
2.雇用関係の法令や制度の改正で定められる事項(全企業対象、人数要件があるものもある)
・男女・正規/非正規社員の賃金差の開示義務(既に府令改正されているが開示は今後)
・副業・兼業についての情報の開示義務(既にガイドライン改定済)
・男性社員の育児休業取得率の開示義務
・健康経営の強化と健康情報のより強化された開示(義務ではなく任意)
・中途採用比率の開示義務(既に施行)
・育成・リスキルの強化についての政策の強化
※前提として、近年増えている「措置義務」が定められている法改正や、女性活躍推進法や次世代法の情報開示・一般事業主行動計画の規定義務などの制度全体も、制度趣旨が人的資本経営と強い繋がりを持っている。広い意味での制度開示と一体的なものであり、一体的に扱う必要があるものと考えられる。
これらが共通して「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を目指すものであるという観点で一貫していることが、ご理解頂けるでしょうか。
有価証券報告書の開示事項において、社内環境整備指針・人材育成方針は総括的な定量・定性的な記載が求められるものと考えられますが、その内容を考える上でも「多様性」として開示が定められている項目が重要になります。
「多様性」の項目では、男女賃金格差の開示・女性管理職比率・男性育児休業取得率の開示が定められています。これらの多様性に関する項目は図の2の雇用関係の法制度と全て関係があり、労働関係法の中でも、各企業で実態把握と課題設定をして、施策とその結果を含めて開示することが求められています。
法令上の制度趣旨から言いますと、たとえば例えば男女賃金比率の開示は女性活躍推進法の規定、男性育休の比率の開示は次世代法と育児介護休業法の規定です。性別によるライフステージに関わる問題、またその中での育児を取り巻く部分が、大きく日本において賃金の低下や雇用の存続に悪影響を及ぼすという問題意識から、それぞれの状況に応じて、当事者のキャリア自律を促し、効果的に働くことを可能にするために定められた法令です。
結婚や育児の必要性が生じた時に仕事を存続して育児を継続するか、家庭を一時期重視して仕事を休業・退職するか、自律的な判断が必要です。その後も、家庭での夫婦や家族の協働によって雇用を存続しやすくすることや、一度仕事を離れた後も再チャレンジが可能な働き方にしていくことが重要であると言えます。この課題に対して雇用関係で行われている施策が今回の開示においても重視されているということです。
こうしてみても分かるように、近年の雇用関係の法制度は、いかなるライフステージにおいても再チャレンジを可能にするためのキャリア自律の制度的な支援が趣旨です。キャリアアップを支援する法制度や雇用環境の整備に関する法令などのように、同じ趣旨を持つものが、働き方改革の時期から施行されてきました。
有価証券報告書には項目別の記載義務はありませんが、制度開示となっている中途採用比率の開示や副業方針の開示などは、人材育成方針や社内環境整備方針と強くかかわりを持つものだと考えられます。
また大事なことは、こうした副業方針や中途採用人数の開示についても、制度趣旨としては「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を目指す目的のものであるということです。日本企業の発展の弊害として、新卒一括入社で採用されることが多い正規社員と非正規社員の待遇差が大きく、その差が続いてしまうことが言われてきました。また、諸外国に比べて転職をする人の割合が低く、キャリアが単線的になる傾向があります。更に、一旦会社に勤務すると、自ら働く場所や職種を選択しにくくなりがちです。時にはそれが、仕事へのエンゲージメント(当事者意識ややる気)の低下に影響することがデータ上でも明らかになっています。
こうした問題に対して、中途採用比率や副業方針についての開示は、中途採用の抑制や副業禁止による流動化抑制を抑え、「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を可能にする後押しの施策として定められたものです。
こちらは、ここまでお伝えしてきた内容についての、内閣府「人的資本可視化指針」の制度開示の説明箇所です。これ以外にも雇用関係の制度開示には
「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」に向けた多数言及があります。
この続きは後編となります。
後編公開までしばらくお待ちくださいませ。
著者:松井 勇策 氏
(社会保険労務士・公認心理師 / フォレストコンサルティング経営人事フォーラム代表・情報経営イノベーション専門職大学 客員教授(専門領域:人的資本経営・雇用実務)
人的資本については国際情報から関連する国内の制度までを2020年当時から研究・先行した実務に着手。人的資本の国際資格であるGRIスタンダード公式講座修了認証・ISO30414リードコンサルタント等を保持。ほか関連するIPO上場整備支援、人事制度構築、エンゲージメントサーベイや適性検査等のHRテック商品開発支援等。前職の㈱リクルートにおいて、組織人事コンサルティング・東証一部上場時の上場監査の事業部責任者等を歴任。 著書「現代の人事の最新課題」日本テレビ「スッキリ」雇用問題コメンテーター出演、ほか寄稿多数。
★最新の著書
人的資本経営と開示実務の教科書1: 人的資本経営の全体像 人的資本経営と開示の重要ポイント
HP : https://forestconsulting1.jpn.org/
Facebook : https://www.facebook.com/matsuiyusaku/
Twitter: @ForestMatsui
後編はただいま編集中になります!公開まで楽しみにお待ちくださいませ。