【寄稿】人的資本経営における「育成」 ~人的資本開示で最も重要な「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」の実現~(後編)
人的資本経営促進に向けた流れが本格化しています。民間からも、行政の多くの部局からも様々な情報が発信されています。上場企業にとっては2023年度以降には有価証券報告書等で人的資本の記載が義務化される年になります。さらに、様々な労働系の人的資本に関する制度も施行されつつあります。
企業の中で具体的な施策を検討する時期に入ったと言えます。本記事では、人的資本経営を進める上で最も論点として重要になる「育成」について解説した、後編の記事です。
1.人材戦略における課題の捉え方と、人的資本開示上の対応方法
前編では、人的資本経営の要点として人材育成が重要テーマであることを、制度上の開示項目を例示しながら解説しました。
前編で見てきたようなに、人的資本経営として人材戦略と開示を考える上で、「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を実現するという課題認識は不可欠なものであると言えるでしょう。逆に考察すると、こうした点の検討がなく、別の点のみにフォーカスして人材戦略を設定してしまうと、義務化されている制度開示の開示内容に対する課題のポイントがずれて、制度開示の内容がおかしなものになってしまうことも考えられます。
こうした課題設定を行った具体例は後に述べます。人材戦略構築にあたり、年齢別やライフステージ別、または役割・部署別などで、エンゲージメントや社内の制度等への認識、キャリア自律の度合いがどのような状況なのか、というような情報を検討材料とすることは不可欠であると考えられます。
また、制度開示上の必須の内容でもある、男女賃金や非正規の賃金比率、男性と女性の育児休業取得率、副業の方針や方針等を確認することは重要でしょう。同様に制度開示上の項目として、中途採用比率や、中途・新卒入社者の割合、属性別のエンゲージメント、社内の制度への認識などを取得し、そこから検討することも必要なことでしょう。
こうした人的資本の情報に対して問題が発見された場合、人事戦略における阻害の程度を検討した上で、各対象層や個人に対して、課題解決に向けた施策を考案していくことになります。
人的資本開示において、これらの数値を可視化することで把握された事実や経営上の認識、対応施策を開示していくことは、制度開示にもそのまま適合する内容です。それだけではなく、制度開示の背景にある日本の雇用法制度の多くの制度趣旨とも合致することになり、コンプライアンスを万全にすることとも直結します。
2.「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」の観点で見る、人的資本経営実践事例
行政上、人的資本経営に関しては人材戦略の設定方法や開示事例として多数の事例が公開されています。重要なものが、「人的資本可視化指針(※1)」や「人材版伊藤レポート2.0(※2)」において提示されている事例です。こうした資料には、上記で考察してきたような「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を課題の根本として柔軟なキャリア形成の支援や、ライフステージ別の活躍支援などを行った事例や開示のヒントが非常に多く詰まった資料です。
資料内に記載のある各企業の課題の捉え方は様々です。性別や出産・育児等の支援にフォーカスして意識醸成と施策の両面から行っている事例、さらに広い対象にライフステージに応じてキャリアの複線化に向けた支援をすることによって社内の活力を向上させた事例など、様々なものがあります。
こうした事例については、前項に挙げたような事実の把握をまずは行った上で、分析、現状の判断、意思決定を担当部門や経営レベルで行っていくことが重要でしょう。
以下に、実践事例集(※3)からいくつか事例をご紹介します。
※3:人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~実践事例集(令和4年5月)
双日社の事例
こちらは、人的資本可視化指針の付属資料に提示されている双日社の事例です。まず課題の領域別の問題意識を整理した上で、属性や職種ごとの活躍支援が、経営的なアウトカム(結果)にどのように結びつくのかの全体像が整理されています。
その上で、多様な個人に対して、ライフステージ、属性、役割、個人の特性になどよるキャリアの展望について、社内だけでなく社外も含めた視点で支援する施策が載っています。ライフステージや属性によるキャリア自律支援の施策からその効果までを、現状認識に基づいて整理した事例であると言えます。
KDDI社の事例
人材戦略のための基盤整備の上で、特に社会課題の観点でも注力されている性別による活躍支援に注力することが示されています。さらに、情報の整理基盤の上でどのように事実を把握し、活躍を支援するかのプロセス、目指すKPIとその予測効果が提示されています。これも、女性であるという個性やライフステージにおけるキャリアの支援が独自の形になったものであると言えます。
サイバーエージェント社の事例
年齢という階層を越えた活躍を目指すことと、そのための具体的な施策、またその効果が述べられています。また、個人がキャリアを主体的に考え判断し、その考えを組織が受け容れるための環境整備についても述べられているのだと見ることができます。
経営戦略や事業の性質から、経験や習熟度よりも、個人の特性に着目した方が良いという人材戦略が基盤になっていると考えられます。個人のライフステージや個性を尊重しつつ、年齢や経験年数という従来の判断軸と異なる方向の戦略であると解釈できます。
丸井グループの事例
個人の特性やライフステージの要望を受け入れることが大きな目的となっていると考えられます。環境の整備や研修の整備についての事例が提示されています。
各個人の特性を活かすためには、上司・部下・他部門といった階層や所属の壁を超えて理解し合い、支援し合う風土を作ることは非常に重要です。施策面の工夫が重視された事例であると言えるでしょう。
3.各種法令や制度から見る人的資本経営の重要性
本稿では、人的資本経営の全体の制度趣旨と、特に重視される制度開示の内容に主にフォーカスして考察をしてきました。以上に見てきたような「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」を考える際には制度開示だけではなく、人的資本経営の様々な他の情報や資料が大きく関わりを持つものであると言えます。こうした内容は次の原稿において、実務面を踏まえて触れていくことができればと思います。
主要な資料としては、人的資本関係では「人材版伊藤レポート」の1と2.0があります。更に開示に関する国際的な指標として「ISO30414」や、ESGに関する横断的な指標である「GRIスタンダード」などがあります。これらのような人的資本経営に関する直接の資料だけでなく、人的資本経営に結実することとなった、前提となる雇用系の法制度にも多数の関連する制度があります。
人材版伊藤レポートでは、サクセッションプランとしての経営幹部候補育成や、人材ポートフォリオを踏まえた人材育成、リスキルやリカレント教育などの育成プラン立案・企業内外の壁を超えた交流などが複数の箇所で述べられています。これらは個性に主に着目してキャリア自律を促す支援であるとも言えます。また新卒、若手、中堅、ベテランなどといったキャリアやライフのステージと関連づけて自律を支援するという色彩も濃く持っているものと考えられます。
ISO30414は、ジョブの定義を行うことを基軸にして企業の状態を把握する、人的資本経営と繋がりが深いとされている開示のガイドライン・指標です。研修受講自体の把握や育成関係の研修費用、その他、法令等に関する研修の時間等の計測など、個人のキャリアやライフステージと関係が深い指標が多くあります。
ほか、GRIスタンダードはESG関係の開示で最も多く用いられていると言われている指標です。男女別の報酬や待遇等のダイバーシティ支援関連指標は非常に多く、また人材育成の観点でも性別等に関わらない支援についての事実把握に関する項目が多く設定されています。こちらも全体として、ライフステージや個人の特性を踏まえた支援に関する内容が多いものと言えるでしょう。
日本において人的資本経営を考える際に、人的資本経営自体が重視されるに至るまでの政策の経緯が非常に重要です。「ライフステージと特性に応じたキャリア自律の支援」は、「働き方改革」の一連の制度改革から今まで、一貫して雇用関係の法制度の目的の大部分を占めています。つまり、人的資本経営は「突然出てきた新しい動き」では全くなく、こうした制度的な流れの中にあると言えます。働き方改革で行われた社会的な基盤となる労働法制の整備は一巡しました。現在は企業ごとの課題に応じた整備の徹底と実施が求められており、そのために、働き方改革の次のステップとして人的資本経営に関する様々な制度が立案されたのだと言えるでしょう。
今後はこうした、課題設定や事実の把握に役立つ任意の資料や、これまでの経緯となっている法制度も活用し、本稿で考察したような「ライフステージと個人の特性を吟味したキャリア自律」についてさらに具体的な内容を考察して参ります。
著者:松井 勇策 氏
(社会保険労務士・公認心理師 / フォレストコンサルティング経営人事フォーラム代表・情報経営イノベーション専門職大学 客員教授(専門領域:人的資本経営・雇用実務)
人的資本については国際情報から関連する国内の制度までを2020年当時から研究・先行した実務に着手。人的資本の国際資格であるGRIスタンダード公式講座修了認証・ISO30414リードコンサルタント等を保持。ほか関連するIPO上場整備支援、人事制度構築、エンゲージメントサーベイや適性検査等のHRテック商品開発支援等。前職の㈱リクルートにおいて、組織人事コンサルティング・東証一部上場時の上場監査の事業部責任者等を歴任。 著書「現代の人事の最新課題」日本テレビ「スッキリ」雇用問題コメンテーター出演、ほか寄稿多数。
★最新の著書
人的資本経営と開示実務の教科書1: 人的資本経営の全体像 人的資本経営と開示の重要ポイント
HP : https://forestconsulting1.jpn.org/
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