人的資本経営の背景を時系列で理解!「ライフステージと個人特性に対応したキャリア自律」を目指す政策の動き(後編)
人的資本経営を目指し人材育成に力を入れる企業が増えつつあります。
本記事では、前編に引き続いて「時系列で理解する、人的資本経営に関する政策と国内外の経緯」についての記事の後編をお届けします。
前編では、まず人的資本経営とは「人的資本課題を中長期で設定し、人事労務の戦略も視野に入れた経営手法」であることを解説しました。そして人的資本経営を実現するためには働き方改革からの「多様な働き方の徹底」が重要であり、特に「ライフステージや特性に応じた活躍ができているか」というダイバーシティ実現やキャリア自律に関する課題が特に重要だと言えます。
制度の背景を理解するために、人的資本経営に至るまでの制度の経過を考察すると人的資本経営の論点が整理でき、クリアになる点が多いです。前編では上記の点と共に、1990年代以降の日本における働き方の変化と雇用における新しい制度、欧米でのESG経営の成立と発達についてでした。後編は2017年頃からの働き方改革や人的資本経営についてです。
1.日本における基礎的な環境整備
・2017年頃
日本で働き方改革の政策が始まり、長時間労働の抑制をはじめ労働基盤の整備が行われました。同時に、キャリアアップに重点を置いた促進施策が強化され企業への助成施策と共にキャリアコンサルタントの国家資格化や増員等が行われ、また同一労働同一賃金の制度が施行されました。働く方のリスキル・自己成長に合わせた労働移動や待遇の改善などについて一定の制度の整備がなされたと言えます。ほか、高齢者雇用安定法・育児介護休業法・パワハラ防止法などで「措置義務」が多く規定され、企業が自社の環境に応じて適切な施策を行う規定を持つ法令の改正が多く施行されていくことになります。自社の労働環境に合わせた課題設定と改善が規定されることで、労働市場における人的資本経営の基礎的な環境が整備されたと見ることができます。
2.先行して進んだ、海外での人的資本情報開示の動き
・2018年
それまでESG観点で人的資本として捉えられていた人権保障や平等性などの社会責任とは違う、欧米で一般化している人事制度であるジョブの定義の側面から、ジョブに対する過不足や効率性を測ることを目的とした「ISO30414」をISO(国際標準化機構)が公開されました。組織の種類や規模を問わずに用いることが可能であるとされています。体系的にはジョブを測定して定量化することが根本であるため、リスクマネジメントやダイバーシティ関係の項目はありますが補足的な事項であると考えられる内容です。また、ISOの規格の中では認証規格ではなくガイドライン規格として発行されているため公的認証は行われず、民間で独自基準での認証が行われています。11領域58項目の規格が設定されています。11の領域は以下の通りです。
- コンプライアンスと倫理
- コスト
- ダイバーシティ
- リーダーシップ
- 組織文化
- 組織の健康・安全
- 生産性
- 採用・異動・離職
- スキルと能力
- 後継者の育成
- 労働力
特にジョブ観点での体制についての情報やその他の情報を社内外から定量的に把握し、企業間の比較ができることが利点だと言われています。
ただし、上記で見たようにISO 30414はあくまでジョブを定義してその過不足で捉える観点を基本にした指標の体系です。そのためライフステージに関わるダイバーシティを深く捉える方向性の日本国内の法令の制度開示のような観点が含まれません。有価証券報告書に掲載することが義務化された項目もISO30414の中には1つも存在しないため、日本の雇用政策とまた別の方向性のものだと言えます。本稿で詳述はしませんが、他にも日本の人事制度と合致しない点も多く、ISO30414を部分的にKPIとして使用する場合、使用する目的と得たい成果についてよく噛み砕いて設定する必要があると言えます。
そのように目的意識を持って活用を行わないと、日本企業の経営・人事の特質である、経営理念の重視・総合職制度などの人材育成の良い面や、安全性や倫理観の重視・政策的に進められてきたライフステージ支援などの要素が生かされなくなってしまうことが危惧されます。
・2020年
SEC(米国証券取引委員会)が人的資本に関する情報開示ルールの義務化を決定しました。これにともない、アメリカの上場企業では人的資本の情報開示が必須となっています。施策によって、従来の財務指標のみでは発見できなかった実態が可視化されやすくなりました。例えば、従業員の離職率や人材開発の状況などのデータが開示されています。
3.日本での人的資本開示に向けた取り組み
・2021年6月
東京証券取引所により「コーポレートガバナンス・コード」が改定されました。コーポレートガバナンスとは、企業が社会的な立場や役割を踏まえて適切な意思決定を行うための仕組みのことです。透明性や公正性を保ちながらも、速やかな決定を実行する目的で、コードが主要な原則を示しています。改定後は、人的資本の情報開示の義務化に関する内容が様々な事項で記載されました。
ここに「人材育成方針」と「社内環境整備方針」が開示される原則が定められ、現在の有価証券報告書の開示事項にも影響を及ぼしているものと考えられます。また、国内での労働市場では、今までに見たように雇用に関する改革が進んでおり、ダイバーシティ関係の全世代の活躍を促し、ジェンダー平等や属性に関わらない平等・活躍を促す流れと調和的なものであるように配慮されています。
【参考】コーポレートガバナンス・コード(株式会社東京証券取引所, 2021.6.11)
・2022年5月
2020年9月に既に最初の版が公開されていた「人材版伊藤レポート」の2.0が公開されました。2020年9月の報告書に対して、こちらには人材戦略のための具体的なポイントが記載されているのが特徴です。「3つの視点と5つの共通要素」の内容が具体的に示され、人的資本経営を進める企業で参考にしていく位置づけであるとされました。
以下のような項目で、人的資本経営を行う企業で基本にすべき3つの視点と、参考事例としての5つの共通要素が挙げられています。
3つの視点(Perspectives)
①経営戦略と人材戦略の連動
②As is‐To beギャップの定量把握
③企業文化への定着
5つの共通要素(Common Factors)
④動的な人材ポートフォリオ計画の策定と運用
⑤知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
⑥リスキル・学び直し
⑦従業員エンゲージメント
⑧時間や場所にとらわれない働き方
人材版伊藤レポートは基本的に大規模な企業を対象にしている言及が非常に多いため、述べられている各論と分けて、論旨として言いたいことをよく咀嚼する必要がある資料であると筆者は考えています。
「3つの視点」では、企業経営における人的資本経営の捉え方や体制が挙げられています。大企業の体制の各論も多いのですが、全ての企業で参考にすべき考え方が述べられていると言えます。概略は本稿に既に書いた通りで、経営視点での意思決定やKPI設定、結果としての社内への定着が必要なことが述べられています。
「5つの共通要素」は、人的資本経営の施策事例が述べられていますが、こちらも大企業特有の施策が多めであることには同じく注意が必要です。本資料の特徴として、今までに日本で行われてきた雇用関係の法制度への視野が薄く、さらに施策実施時のリスクマネジメント観点が薄いと言えるため、活用に当たっては注意が必要でしょう。5つの共通要素については施策の発想のための参考事例であり、施策として必ず行わなくてはならない位置づけのものではない旨が資料中に述べられています。何を意図して施策が構成されているのかをよく理解・推論して読解することが必要な資料だと言えます。
【出典】人材版伊藤レポート2.0(経済産業省, 2022.5)P12
・2022年6月
今後の人的資本に関する整備がどのように進むのか、法令や制度の全体像が具体的に組み込まれた形で、内閣府より「新しい資本主義のグランドデザインと実行計画」が示されました。これにより、有価証券報告書等での人的資本関係の情報の開示は2023年の決算期から開始されること、また関連して雇用関係の開示についての法制度も2022年から2023年に順次開始されることが明らかになりました。
【参考】新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画 (内閣官房, 2022.6.7)
2022年6月以降「新しい資本主義」の政策決定に基づいて、急速に人的資本に関連する雇用関係の法制度が整備されました。女性活躍推進法の改正と、男女・正規/非正規社員の賃金差の開示、副業ガイドラインの改定による副業方針の開示、育児介護休業法の改正による男性社員の育児休業取得率の開示義務、健康経営の強化と健康情報のより強化された開示などが迅速に進められています。
・2022年7月
内閣府から「人的資本可視化指針(案)」が発出され、9月には確定版が提示されました。人的資本の開示に関する政府からの資料や、様々な省庁や関連審議会からの資料も多く出てきており、行政の全体を含んだ大きな動きであることが明らかになりました。人的資本可視化指針については日本における人的資本経営への取り組みの大枠と個別の法制度の全体像が示されています。以後、個別の制度の整備がさらに急速に進められる見込みです。
【出典】人的資本可視化指針(非財務情報可視化研究会, 2022.8.30)P3
4.人的資本経営推進を、より意味のある施策とするために
以上のような経過のなかで、欧米のESGや特有の人事制度の流れの影響を受けつつも、日本における内部課題を継続的に解決するための動きとして、日本国内では安定成長期、失われた10年を経て、働き方改革から人的資本経営へと向かっている経過がご理解頂けたのではないかと思います。
国際的な流れや知見を意識しつつ、継続的に国内の全ての企業・働く方々・行政などを含んで進んでいる流れを意識して人的資本経営を意味のあるものにしていくことが求められます。